道徳は誰のためにあるのか?

道徳というものは非常にやっかいだ。
道徳的にいきることが自分のため、という思い込みは、
普通に学校に通って卒業し、一般的な企業に就職して働いている限りにおいては、
全く解ける余地がないように思う。

大方の人が、本当にそうなのか、誰がいっていることなのか、
それを疑うことすら知らない。そのくらい道徳はシステムの中に深く組み込まれている。そのほうが都合のよい側の人間が多くいるということだ。

たとえば、違法ではないが、道義的に疑問符がつく、友人間での約束を例にとってみよう。
一週間前にご飯を一緒に食べる約束をしたら、かならずそこにいくのは勿論で、律儀なひとだと、さらに予約をして、15分くらい前には到着するのではないか。

一方で、テラスハウスの今井華さんのように、今日は気分がのらないからいかない、と平気でいえるひともいる。彼女は、1週間後にイタリアンが食べたい気分かどうかわからない、という理由で、デートの誘いを断ったりするらしい。

では、こうした行いは(道徳的に)許される行為なのか。
それはひとによるし、場所にもよるし、時代にもよる。
道徳とは、それぐらいいい加減なものなのだ。

あなたがもし「約束は守るもの!」と疑ってかかったことが一度もないのなら、それは誰のためになるのか、いちど、自分の心と頭でよく考えてみるといい。

ひとはよく、こうした行為を「不誠実」だとか「ろくでなし」だとかいうが、これは一方的な価値観の押しつけだ。こうした価値観の押し付けを信じ込んで、必要以上に自分の言動の幅を狭めていやしないか?

「別に自由でいいではないか」と考えるか、「けしからん」と考えるか、
この分水嶺は、自分の人生をいきているひとかどうか、にある。
自分の感覚にしたがい、自分の人生をいきるのならば、ひとがそうしろといっていること(道徳)など、あまり重要ではないのだ。
自分の価値観を尊重してもらいたいので、ひとの価値観も尊重し、押し付けることは極力しない。

山尾議員は、週刊文春に対し、次のように応じるべきであった。
「あれは女の甲斐性であり、自分の生き方だ」と。

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