自分のために発揮する生産性

 

生産性ときくと、超高層ビルの立ち並ぶエリアにある
20階のオフィスの会議で使われそうな言葉だ。

そういった場所では、
ひとがひとを使うときに、「よいもの/こと」として”生産性”が語られる。

数値を達成するために、
わがチームの”生産性”を高めなければならないうんぬん。

なるほど、その”生産性”が高まると一見よさそうだ。
効率化を徹底すれば、やれることが増えるので、
生産性は高まるようにみえる。

だが、他人のために発揮する”生産性”を押し付け合うことの悪影響は計り知れない。

私も昔は、効率的に仕事をすることこそが最善だと信じ込んでいた。
「なんであいつはあんなにゆったり仕事をしてるんだ。もっとできるはずじゃないか」
そんなことを横目に、ただひたすら目の前の仕事に集中していた。

その結果失われたのは仕事仲間との雑談であり、仕事仲間のアウトプットに対する
寛容さだった。
寛容さが失われると、自由闊達な議論が失われるので、
それこそ生産性の低いドメインの仕事が人に与えられ続けてしまう。

これらをおざなりにすることで失われる生産性に気が付かない。
仕事の本質は、自分が好きでやっている個人の総体としてのパフォーマンスなのに。

自愛の哲学からすると、生産性とは、自分のための生産性なのである。

自分に与えられた限られた時間を大切にすること、
そのために、自分がやりたいことをめいいっぱいやりたい、
だからこそ、工夫するのである。

みなが勝手に工夫をしだすように、
マネジメントがなさらなければならない。

 

Photo by rawpixel.com on Unsplash

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