唯識の思想(横山紘一著)

すべては、心(それも奥深くの)から生じるものなのだ、という考えは、非常に、自分の心を御しやすく、有益なアイディアだと思う。言葉の対象など存在しないのだから、言葉によってことさらに悪いものを明示的に認識する必要がない、というのもその通りだ。

すべては関係なんだと考えていくならば、信念や信仰、外から与えられる倫理などなくても、正しくいきていくことができる、というのも頷ける。

だが、他方で、ある種の正しさの押し付け感と、無我をここまで説くのはなぜなのだろう、という疑問を禁じ得なかったのが正直なところだ。

全体的に、他者への思いやりというモラルを強調しているきらいがあるし、もうひとつには、人間のポジティブな感覚や言葉のうまい使い方をあまりに軽んじているように思う。

私には、釈迦が体験した鬱の克服というストーリーの絶対性を、釈迦を神格化した後に否定できないという、仏教がもつジレンマを感じずにはいられない。当時は生きるのにも必死で助け合いが一層求められた時代だから、そういう枠組みが支持を受けたのはわかるのだが、いまの時代に、それを維持する必要がどこまであるだろうか。釈迦は神ではなく、一人の人間の例として考える方が有益だと思う。

それを抜け出せなかったことが、仏教が多くの人の心から離れてしまった理由、あるいは、唯心論のいう、阿頼耶識といった複雑な思想が浸透しなかった理由ではなかろうか。

私はもっとわかりやすいことばで、単純に考えていいと思うし、人間のポジティブな感情を肯定し、言葉でそれを支えていきてもよいと思う。仏は、苦から出発したが、人は、楽から出発することもできる。

仏教は菩薩的な態度や悟りの境地にひとを誘うが、聖人にならなければいけない理由はいったいどこにあるのだろうか。自己とは楽を愛し感じる主体であり、苦ですら、楽のためになる。楽を感じられないくらいなら、仏などいらないという考えだってとれる。仏のようにいきたい人間は多くはないだろう。

もし感情の起伏によって、”不必要な”苦しみが生まれるというのなら、そのときに限って、唯心論のような考え方(すべては心が作り出しているものにすぎない)をすればよいのであって、無我を求めて、自らのポジティブな感覚や感情を閉ざしてしまう傾向をつくりだす必要はないと思う。

「生かされている」と考えるのも、自然と一体的に自分を位置づけるのも、それ自体はよいことだと思うが、もし無我をことさらに強調して自らの感性を閉じてしまうのであれば、それは、あまり、人間的ではなく、自然的でもないといえるのではないか。

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