なぜ「愛する」ことは難しいのか

それは、愛することの意味が曖昧だからだ。

ここで私は、「愛する」とは、「そのひとがその感性に正直に従うことを、そのまま尊重すること」と定義したい。そこには、計算も規範も法律も他人の期待も一切介在しない。

なぜこのように思うにいたったのか、というと、

とある、30代の女性が、尊敬する夫とともに順調な結婚生活を10年ほど送っていて、特段の不満がないにもかかわらず、自らがもっとエキサイティングな人生を送るために、夫に対して離婚の意思を伝えた、

すると、その夫が、全く反対することなく受け入れた、というエピソードを聴いたからだった。

 

えっ!と思うだろう。

 

結婚式といえば、「永遠の愛」を誓う場所で、それだからこそ、胸をときめかせる女性も多いのに…

もし将来、妻がいたとして、そのような理由で離婚を申し出てきたときに、この夫さんのように、自分は行動できるだろうか??

と深く考え込んでしまった。とても勇気がある行動であり、本当の意味で相手を尊重しなければできない、これこそが、相手を「愛」している、といえるのではないか。

そう思ったのだ。

先日お邪魔した演劇学校 Prayers Studioで、取り上げられた、白い象のような山並み(ヘミングウェイ)でも、

堕胎を迫る男に対して、その妻が、

「もしあたしがやれば、あなたの機嫌が直るし、全ては元通りになって、あたしを愛してくれるわけね?」

と切り返すセリフが出てきた。このように、ひとは結構、いい加減に、「愛する」というコトバを使い、それを相手にもとめている。

だが、ちょっとまってほしい。

「愛する」ということの意味を、

いったいどれだけのひとが明確に意識して使っているのだろうか?

このブログの最初の方の記事でリアル・ラブをとりあげたが、

それは親から子どもへの愛の場面だった。

そこでの定義は、「その人のその存在を無条件に祝福すること」だ。

だが、こういった男女間の状況になってくると、なかなか使いにくかったので、

またとない、素晴らしい発見になったのである。

Follow me!