卒塔婆小町(三島由紀夫)を演じて

夢は罪深く、なお、愛おし。

三島由紀夫の卒塔婆小町を演じて思ったこと。
なぜなら、それなくば、生きていけぬ。
しかし、それはひとを過酷な道に突き動かす。

深草少将が、老婆の若かりし頃に百夜通いをし、
ついに100日目の夜、その約束を果たしてくれるのか
と迫りながらも、「前に進」めない。

嬉しいのだが嬉しくない。
得られないと思っていたものが得られてしまった先に
待つものが怖い。

私は、深草少将が求めながらもひるんだ「老婆の若かりし頃の姿」を、
「自らの夢」に置き換えて演じたのだ。
つまり、夢をかなえてしまったら、あとは退屈な日々が
待っているのではないかという”恐れ”に読み替えたのだ。

だが、いまいちどよく読んでみると、三島由紀夫が伝えたかったことは、
美しくみえる場面を切り取ってその過去に執着するでなしに、
醜くみえようがいまを「生き抜け」。それこそが美しいのだ、
ということであったのではないかと思う。

「前に進む」とは、自分のきれいな世界観から抜け出すことであり、
作中で、老婆の仮の姿(若かりし頃の姿)を「美しい」と形容した男たちが皆死んでしまうのは、
自分のきれいなその瞬間にとらわれて、次の瞬間という名の生に向き合わずにいるのは、死んでいるに等しいということを伝えたかったのではなかろうか。

深草少将の生まれ変わりである詩人が、
「生きるために死ぬのかもしれず…」とつぶやいたその先に、
老婆が「俗悪だわ!俗悪だわ!」と叫んだのは、
そうした死んでいるにも等しい生に耽溺するのは、下品だ、と
いいたかったに違いない。

Follow me!