なぜあなたは空想を遠ざけて日々を過ごすのか?
アーシュラ・ル・グインのエッセイ 「THIS FEAR OF DRAGONS」。このエッセイを知ったのは、ゲド戦記 壊れた腕輪 の巻末の解説で紹介されていたから。
なんでも、なぜか、よく働く30歳以上の男性(筆者は自分が知っているのはアメリカ人だけといっている)の多くが、ドラゴン(ファンタジー:空想力の発揮)を恐れているようにみえる、ということだった。
どうして、ル・グインがそのように考えたのか。
私はどうしても知りたくなって、わざわざイギリスの古本屋から、そのル・グインのエッセイが収録されているという、児童作家のエッセイ集「The Thorny Paradise」を取り寄せたのである。
筆者は、アメリカの多くの成人男性が、
ピューリタニズムの影響による勤労の美徳や利益優先主義、ひいては、男性性が担うべき役割(manly)への規範意識に、意識的かどうかは別として縛られており、
作り話を読むことや空想を働かせることが、社会的に正当化されない、もしくは、社会的にふさわしくないとして、目を背ける対象になっているのだと分析するのだが、
では、なぜ恐れているのか、という点について、
グインがいったことを私なりに解釈すると、こういうことになる。
※( )の中は私の注釈。
ドラゴン(空想を働かすこと)は、真の自由である(そしてまた、人間にしか与えられていない真実の生き方である)。
それが本当の意味で自由であるからこそ、(そこに目をそむけて生きている人たちは)ドラゴン(その空想の自由さ)を恐れるのだ。
(その自らの魂が否定できない、その憧れの気持ちゆえに。)
ル・グインの、「空想」、「遊び」、「自由」の定義、そして、「遊び」と「目的」の捉え方がとてもおもしろい。
Very well; I certainly can let ‘absolutely essential human faculty’ stand.
私は、絶対的に不可欠なものとして人間に備わったその特性(空想力)を、たしかに発揮することができる。
By imagination, then, I personally mean the free play of the mind, both intellectual and sensory.
空想とは、その精神の自由奔放な遊びのことをいう。理性的にも感性的にも。
By “play” I mean recreation, re-creation, the recombination of what is known into what is new.
遊びとは、再創造。知られていることの、知られていないものへの組み換え。
By “free” I mean that the action is done without an immediate object of profit-spontaneously. That does not mean, however, that there may not be a purpose behind the free play of the mind, a goal.
自由とは、当座の利益とは関係のない、自然発生的になされるアクション。
自然発生的だからといって、その精神の自由奔放な遊びに、目的が存在しないいうわけではない。
And the goal may be a very serious object indeed.
そして、そのときの目的は、まことに真剣なものとなる。
これは、私がお伝えしている、真の生産性、つまり、自分のため(遊びのため)の創造が、たえずしっかりとした目的をもつこととも平仄が合う。