なぜあなたは議論を好むのか?

「議論」というもの、それはそもそも必要なのだろうか、という問いを
私は自分にたてている。

私もロジカルに生きてきたので、かつては、プランのメリット・デメリットをはかり、
それに応じて、こちらのほうがよりよいのだ!といった主張を、
さまざまな理由とともに、口角泡を飛ばして述べたりしていた。

これができると、
立派だ、といわれる世界で生きてきたように思う。

だが、この世界には所詮、好きと嫌いしかなく、
焦ったところでどこに向かうわけでもない、
ということを強く認識するようになると、

その”比較”衡量や頭で考えた理由そのものが、大した意味がないように
思えてきた。

「龍馬がゆく」(司馬遼太郎)に、坂本龍馬が
「俺は議論はしない、議論に勝っても、人の生き方は変えられぬ」

といったと、あるらしいのだが、

その通りだと思っている。

そもそも、議論をしなくても、たいがいのことは進むのではないか、
とすら思っている。

ひとのそのままを、

見、聴くことさえできれば。

そのコミュニケーション(他者との接続)を、

「共感と提示」を基本にして、行うことさえできれば。

議論というものは、目の前のひとを感じることを
忘れさせる。リアルな一個人の存在を捨象して、
なにか高邁なバーチャルなものを優先させる。

そんな議論が起こってしまう事自体、
その場に自らがいなくてもいい、という証明ではないか、
とすら思えてくる。

世界は、無数の分子から成り立っており、
人間もその分子の塊にすぎない。

個人は、そのある特定の感性をもった分子の集まり(小宇宙)なので、
好きなものが集まる場所に、ただ集まればよいのだ。

「類を以て集まる」とはそういうことなのだ。

そこには正しいも間違いもない。すべてが正しい。

Follow me!