あなたのそばに真善美はあるか?〜人間の原罪を、スタニスラフスキーという偉大な演出家に尋ねる〜

美、真理、善というのは、美学、哲学、道徳という観点から名付けられた一つの同じ現象のそれぞれの名前です。

これには、衝撃を受けた。

よく、真善美が大事、といったことがいわれるが、きちんとした腹落ちする説明を聞いたことがなかったからだ。
たとえば、真善美を備えた人物、といわれてもよくわからない。

冒頭の言葉は、先日劇団Prayers Studioで紹介いただいた、「スタニスラフスキーへの道」(レオニード・アニシモフ著)という本にあった。

このレオニード・アニシモフさんという方は、
19世紀末、モスクワ芸術座チェーホフ作「かもめ」にて、世界の演劇界に革命を起こした演出家スタニスラフスキー。その人の演出哲学である、「スタニスラフスキーシステム」の研究者・演出家として著名な方で、ご自身もロシア功労芸術家として、演出家として成功されている。

美という実がなる木の根に相当するのは、無邪気さでなければなりません。

私が、こどもに戻れといってるのと同じだ…

無邪気さからしか現実を新鮮なままに感知するという幹は育たない。

そうそう…

新鮮なままというのは、つまり私達の生活や先入観、疑心暗鬼などの制約によって濁らされていない、という意味。

そうなんだよ…

誠実な意欲という枝は、鮮明な感覚と単純さという王冠に編み込まれています。
単純さということを、宇宙の輝かしい合理性のこととして捉え、考えなければなりません。

やっぱり!!そう、宇宙の自然法則こそが美であり、真実であり、善なんだ。
これで何もかもが説明できる。だから、次のようにいうべきだ。

ひとは、宇宙の自然法則、
そこを、自らの魂の目的地(真実)とし、
それを、自らの言動の範とし(善)、
そこに、接点(美)を見出し、自らを喜ばせながら、
生きるべしと。

”備える”ようなものではない。
その全体に対する部分としての関係性の自覚をもって、全体につながりをもって、そのかつての記憶の中に自らを喜ばせ、全体と一体となることを目指せ、ということなのだ。

この「全体に対する部分としての関係性の自覚」(自然の倫理)という言葉は、
同じ本で、学者のラザレフ氏の言葉を引用していたので、そちらを使わせていただいた。

我々の身体の細胞が自分の役割を果たさなくなり、
全体のことを忘れ、自分のためだけに働き始め、それを自慢するようになったらどうなるか、とイメージしてみてください。

そうなったらそれは病原細胞、がん細胞に変わっていきます。では細胞に全体を忘れさせないものとは何か。

それは自然の倫理です。全体に対する部分としての関係性の自覚です。

動物はこれ(自然の倫理)を忘れない。だから理性が乏しくとも、醜くならない。

人間は与えられたその理性ゆえか、これを忘れてしまう。だから醜くもなる。
それゆえに人間には、自らの理性のなかに、自らを律するものが必要なのだろう。
これは原罪というにも等しい。

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