「桜の園」(チェーホフ)を観劇して【ネタバレあり】


きぃぃぃん、と厳かに優しく響く空気の振動に、
神がかった空間が生まれ、取り込まれる。
次に何が起こるのか、心を掻き立てられる。

中ほどで亀裂がはいっている、片手の幅ほどの木製の円柱。
これをささと回転させると、うららかな鳥の声がする。
春の桜の園の温かみがほんのりと目の前に浮かぶ。

レオニード・アニシモフ監督、東京ノーヴィ・レパートリー・シアターによる、
「桜の園」(アントン・チェーホフ)を観劇してきた。

ストーリーを知らないまま、劇が始まる前に、パンフレットに記載のあった
人間関係だけを確認して劇がはじまるのを待つ。

最初に耳を引いたのが、冒頭の、能をモチーフとした楽団の音たちだったのだ。

能楽堂を舞台に、能の世界を融合してチェーホフを演出するということで、
台詞回しや動きがと・に・か・く、遅い。

「〜だ・し、〜だ・も・の」

正直、2幕あるうちの、第1幕の後半で、いっかい、ガックンと頭を垂れたが、
お留守になっていたのは、その瞬間だけ。

“じいや”の、演技が圧巻であった。
多少意識が朦朧としている老人特有の、ことばにもならない微音が、舞台後方であてもなく彷徨くその役者からたえず発せられているのだが、いやな感じがしない。
存在自体が、場に溶け込んでいる。

あの世なのか、この世なのか、その境界線がぼやけていた。

演目全体を通じて、
葛藤がよく描かれていたように思う。
奥様は、優雅であること(過去の生活)への拘りと、現実に向き合いたい気持ち、
養女は、自分の欲求に素直になりたい気持ちと、相手から選んでもらいたい気持ち、
大学生は、奥様への恋と、自らのプライド(誇り)、
商人は、奥様への恋と、農奴であった祖父や父の仕返し。

そうした中、ひとり、次女だけが、シンプルで天真爛漫な美しさを湛えており、
たえず、登場する人物たちを「新しい生活」(良き生)に誘う役割を果たしていた。

過去にとらわれてしまうのは人間の性。
それが失いたくない美しいもののときもあれば、思い出したくない悲しみのときもある。
その悲しみが憎しみとして現れることもある。

奥様は、優雅に生まれ育った記憶(桜の園)にとらわれ、
養女は、勤勉に働くことでもって讃えられる己の像にとらわれ、
商人は、農奴に育てられた生い立ちにとらわれる

最後に病院送りにされた従僕である”じいや”が、独白した3つの言葉。

「みんなおなじになった…」

というのは、過去にとらわれない生き方の前では、身分も財産もプライドもあったものではないということだし、

「わしをわすれていってしまった…」

というのは、従僕として一生を捧げ、まもなく生涯を閉じようとしている彼に対する、
そのあまりにも軽い扱いこそ、実は真実なのだ、と伝えているのだろうし、

「いのちをいきれなかった…」

というのは、その軽い扱いを前提に、なぜ自らを軸に生きる選択をしなかったのか、
という彼の悔悟を伝えようとしたのだと思う。

それにしても、この、演劇からはいって戯曲に立ち返るやり方を、私はひどく気に入っている。
自分が感じ取れなかったところが鮮明になるからだ。
また面白い発見がありそうで、原作をテキストで読み返してみるのを待ちきれずにいる。

Follow me!