ひと(実体)の前に機能を置くなかれ

今道友信氏の『愛について』という本を読んでいる。

すでに絶版の本で、中古でも結構な値がしたものだが、
それでも取り寄せたのは、先に氏の『美学講義』という本を読んで、
美の実践者たれと説く、氏の熱い想いに感化された上に、

自分のなかで、いまひとつしっくりきていなかった『愛』について、
氏が考察した本があることを知ったからだった。

読み進めるうちに、前から思っていたことがクリアになってきた。

『ひと(実体)の前に機能を置くなかれ』ということだ。

当ブログの過去の記事で、『愛』とはその、当該人間の存在自体への尊重だとか、
その人間存在のもつ感性をそのまま尊重することだ、といったことを述べたが、

それが担保される状態というのは、どうにもこうにも、
『顔の見える関係性』の中でのコミュニケーションに
軍配があがることは、間違いがない。

知識だ、スキルだ、コンピテンシーだ、といって、
あくせく勉学に勤しんだり、トレーニングに励んでみたところで、
それは、あるポジションに求められる『機能』に、
人間を最適化しているにすぎず、

『仕事全体に管理的な責任を持つひとは、その人の代わりに、その人が果たした機能を果たす才能をもつものをみつければ、仕事は終わる』
(『愛について』今道友信著)

のである。

つまり、マーケットという、没個性的な交流に準拠した最適化を続けていると、
機能をベースにした基準が跋扈し、愛が乏しい世界になる。
取って代わるのは、代わりの”有能な”人物かもしれないし、機械かもしれないし、AIかもしれない。そこで重宝されるのは、どこまでいっても、機能的な期待に応じた水準(”普通”)なのである。

それに対して、顔の見える関係性(コミュニティ)においては、
共感があり、感情がある。機能よりも前に、ひとという実体(”個”)がある。
『愛』がある。

だから我々は、あまりに便利さや成長(成果とも呼ばれる)を追求した結果、
没個性的なマーケットに慣れすぎて、疑うことを忘れてしまったのだ。

それが『愛』の前では霞んでしまうほどの価値しかないにもかかわらず、
それに自らの生殺与奪を握らせてしまったのだ。

だから我々は、『愛』の価値を思い出し、
『愛』の前に『機能』をひれ伏させなければならないのだ。

そのためにも、再び、コミュニティに依存し始めなければならないのだ。

それが家族の場合もあれば、スナックのママのように常連の場合もある。
会社の同僚の場合もあるだろう。

だが、どんな場所でも、必ず、機能より前にひとがきていなければならない。

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