チェーホフ「桜の園」を読んで

 

以前のブログで、東京ノーヴイ・レパートリーシアターの演劇の感想を述べたが、
ひとつ引っかかっていたことがある。

チェーホフが、この桜の園を初演以来悲劇的に演じたモスクワ芸術座に対して
「これはドラマじゃない、コメディだと、何度言ったらわかってもらえるんだ」
と嘆いたという逸話だ。

彼が嘆いた意味がわかるかもしれないと、観劇では飽き足らず、
実際に本をとって読んでみた。

結論からいうと、本編を一読する限りでは、いまだよくわからなかったのだが、
解説に一つの見方が示されていたように思う。

「当事者の深刻な悩みや喜びが、他の者の目にはまったくつまらぬ、
滑稽なこととしかうつらない。この主観と客観の食い違いこそが、チェーホフをして
『桜の園』を『喜劇』と呼ばせる所以であった」

ヒューモアも畢竟、自己客観化を通じて、自分の悲惨さを笑い飛ばすことだから、それに通じる。
現代日本ですれ違いを描こうとしたという意味では、アンジャッシュのお笑いに近いものがある。

そうした視点でみるとこの作品、
毎日何か失敗をして『二十二の不幸せ』と馬鹿にされながらも誇りを失わない
地味な事務員、エピホードフこそが真の主人公なのではないかと思わせる。

このチェーホフという詩人、
同じロシアの作家のセルゲイ・ザルィギンから次のように評されているのが興味深い。

「誰かを支配したり誰かに従属したりすることを、自分にも相手にも許さない」
「天才を、日常的節度の概念と共存させた、ただひとりの人」

前段は非常に共鳴するのだ。
私自身、誰かに従属しないことを大切にしているし、
誰かを支配したりしないという姿勢も、
それを自分に課す以上、当然にでてくるポリシーだから。

相手にも許さない、というのは少々厳しいが、
これはきっと愛なのだと思う。
そうしてほしい、との願いというべきか。

だから前段はよくわかる。
だが後段の「天才を、日常的節度の概念と共存させ」る、というのが
よくわからない。

だから、ザルィギンの本「わがチェーホフ」を読んでみようと思う。
そこでどのような思想に出会えるのか、楽しみだ。

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