許すということ〜To forgive〜

目黒の哲学カフェにお邪魔したので、
考えたことを書き記そうと思う。

許す、がテーマであった。

あまりまとめるのもあれだが、
大方以下の理解で進んでいたように思う。

各人の価値体系に応じた反応としての、
「許す」、「許さない」が存在し、ひとは、
折り合いをつけながら生きている。

そして、その各人の価値体系を超えたところに、
他者の存在を承認する愛が、「赦す」という形で存在する。

イライラしていて駅員さんに暴力をふるったひとがいるとして、
その行為は許せるのか?と聞かれた私は、次のように回答したのだ。

「それは、愛がない行為(自然ではない行為)なので、許さない。
(なお、日本では、道徳規範や法規範もそれを許さないのが一般的だ)
だが、そのひとの存在は、愛をもって、同じこの星の住人として赦す。」

なぜならば、その行為にいたったその人なりの事情があるのだし、
ひとはいかようにも変わりうる、大変に尊い存在だとみなしているからである。

行為の善悪はたしかにあるのだ、それは確実。
しかし、だからといって、その人間存在自体を拒否したり、否定したり
することにはならない。

キリスト教における「隣人愛」の意味は、
それがどんなに関係のないひとであっても、自分と同じように
愛することだと読んだことがある。

そういう意味では、隣人愛の態度なのだと思う。
罪を憎んで人を憎まず、という言葉も、ほぼ同義といえるのではないか。

「ゆるす」対象としての、
行為と存在の線引が曖昧な方が、意外と多いのかもしれないと感じた。

(閑話休題)

さて、ひとによっては、
「ゆるす」という言葉から想起される場面が
全く異なっているから面白い。

ある青年は、自分の彼女がわがまま(甘え)をいってきたときに、
自分は本当は疲れ果てているからやめてほしいのだけれども、
やむなく受け入れる、というときが、「許す」という言葉のイメージなのだという。

その定義自体は、各人が勝手に持っていればいいものなので、
私がとやかくいうはなしではないが、そういう意味で捉えたときに、
その「許す」という行為が自分に与える影響を考えることを提案したい、
と思った。

たしかに、頼りにされている、甘えられている、という状態は、
承認を相手から受けているといえ、蜜の味がある。

だが、それは積もりに積もれば、自分を侵食し、自分の本当の気持ちを
ないがしろにしてしまうとはいえまいか。

そうしたときに、いつのまにか、他の人を受け入れる余裕の、余地のない
人間になってしまうとも限らない。

そうした例は、日本のサラリーマンに多くみられるところなのではないか。
駅員さんに暴力をふるうなど、その典型事例だろう。
自分を愛することこそ、人を許すことのできるだけの、寛容さをもたらすのだと
信ずる。

どういうときに許せるのか、あるいは、許せないのか、
という問いも非常に有意義であったと思う。

なぜ人を許せないのか、といえば、
他人に対して勝手に期待してしまっていることが、
現実と反していることに我慢がならないから許せないのだ。

先の彼女のわがままの例でいえば、
「疲れている自分のことを察して我慢をするべき」という期待(仮定)
に拘っているということである。

ありのままをみて、ありのままの自分の気持ちを伝え、
相手の状況を理解しようとするのではなしに。

逆にいえば、ありのままをみて、ありのままの自分の気持ちを伝え、
相手の状況を理解しようと努めることができれば、
許すことはもっと簡単になるはずだ。それを愛というのかもしれない。

最後に、クリスチャンの方がキリスト教について述べていたのが
とても興味深かった。

その方によれば、キリスト教では、
タブーがいくつも設定されていて、それを破った人を、許す、
というところに、教会組織やキリスト教のレゾンデートルがある、
ということだったのだが、

これは実は、マッチポンプともいえるのではないか、と
つぶやかれていた。

いかにもメタ認知的な発想である。

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