誰かの記憶の中に生き続けたい
ちょうど昨日聞いたスピーチのなかで、
「人は肉体が滅びても死にはしない。誰からの記憶からも消え失せたときに、死ぬのだ」
という言葉があって、正鵠を射た言葉であると思ったのだ。
というのは、その前にプラトンの饗宴を読んでいたからだった。
プラトンの「饗宴」には、
ソクラテスとディオティマの会話を引く形で、愛の根源についての解説がある。
ディオティマはソクラテスに、
愛の目指すものを、
「美しいものの中に生殖し生産すること」
と定義したうえで、次のように続ける。
ディオティマ:
「ソクラテス、貴方は何がこの恋愛と欲求との原因だと思いますか?」ソクラテス:
「自分には分からぬ」ディオティマ:
「滅ぶべき者の本性は、可能な限り、無窮(永遠)であり不死であることを願うもの…。
ところがそれはただ生殖によってのみできるのです。
生殖とは古い者の代わりに常に他の新しいものを残して行くことだからです。」
要は、愛の根源は、不死への願いにあるという。
そしてひとはこの不死をいろいろな形で実現しようとする。
それが、肉体的なものであれば性愛として現れ、
生殖行為(つまりセックス)へとつながるのだし、
それが精神的なものであれば、
個人に向かえば友愛や恋愛として現れ、
大衆に向かえば名誉心として現れる。
そう考えれば、生とは、
人々の記憶に自己を刻みつけるべく、
うごめくことそのもの、なのだ。
それゆえに、冒頭の、
「人は肉体が滅びても死にはしない。誰からの記憶からも消え失せたときに、死ぬのだ」
という言葉が胸に刻まれたのである。
たしかに、誰の記憶にも刻まれないのは悲しい。
自己が生きた証拠すら残らないのは寂しい。
だが、誰の記憶にも刻まれなかったとしてなんなのだ。
お前などいなくても世界はまわり、宇宙は何も揺らがない。
その事実を突き抜けられたとき、
己の悲しさの軽さが、あまりに虚しい。
虚しいが、その虚しさゆえに、
精一杯生きようという思いが、
どこかから、溢れ出てくる。